【陽気ぐらし通信 2026年4月号】グラウンドの外から見えた景色―『できることを進んでさせてもらう』ということ

この記事は、天理教綾部分教会が発行している会報『陽気ぐらし通信(2026年5月号)』の内容を、Web用に再編集してお届けするものです。

先日、教区青年会主催のソフトボール大会に参加しました。といっても、私がバットを振ったわけではありません。記録係です。

雲一つない青空の下、天理の白川グラウンドで汗を流す皆さんの姿を、スコアシートを手にバックネット裏のテントから眺めていました。

金属バットの音、ボールを追いかけて飛び込む背中、プレーに一喜一憂する仲間たち。

正直に言うと、うらやましいなあ、と思いました。
私は25歳のときの交通事故の影響で、今も右ひざに軽い運動障害が残っていて、激しいスポーツだけはどうしてもできないからです。

「できないこと」ばかり意識していた頃

実際、右ひざの運動障害はそこまで重いものでもなく、激しいスポーツでなければ、日常生活にはほとんど支障はありません。車の運転なども(多少疲れが残りますが)問題なくできています。

ですが、事故の直後は、やはり落ち込みました。

「もうあれもできない、これもできない」と、できないことばかりが目についていたように思います。

身体が思うように動かないというのは、それだけで世界がグッと狭くなったように感じるものです。

けれど、そんな私に、ある方が言葉をかけてくださいました。

当時、京都教区長をされていた、淀分教会の金山先生です。

つらいときだからこそ

金山先生は、おさづけを取り次いでから、落ち込んでいた私に、次のように諭してくださいました。

つらいだろうけど、『無理です』とか『できません』が口ぐせにならないようにしよう。

『それなら僕にもできます』『これくらいならさせていただきます』という、前向きな言葉を使っていこう。そうすれば、きっと桑原君の人生は開けていくよ

正直なところ、当時の私にこの言葉がすぐに響いたかというと、そうでもなかったかもしれません。

まだ事故のショックの中にいましたし、「そうは言っても……」という気持ちも正直ありました。

けれど、不思議なもので、この言葉はずっと心の中に残り続けました。

そして、少しずつ時間が経つにつれて、私の口から出る言葉が、本当に変わっていったのです。

「それはちょっと無理です」ではなく、「ここまでなら僕にもできます」に。

「できません」ではなく、「これくらいだったら、させていただきます」に。

言葉が変わると、不思議と気持ちも変わっていきました。

「できないこと」に塞がれていた視界の端に、「できること」が少しずつ見えてくるようになったのです。

「できること」に目を向けるとは、ご守護に気づくということ

振り返ってみると、「できること」に目を向けるというのは、単にポジティブ思考になるということではなかったように思います。

たとえば、ソフトボール大会の話に戻れば、私はボールを追いかけることはできません。

でも、スコアシートに記録をつけることはできます。試合の結果をまとめて、順位表を作成できます。選手の皆さんが気持ちよくプレーできるように、裏方として支えることは、僕にもできました。

こうして並べてみると、「できること」って、意外とたくさんあるのです。

そして、もう一歩踏み込んで考えてみると、「できること」があるということは、それ自体が親神様のご守護なのだと気づくことができます。

天理教では、私たちの身体は親神様からの「かしもの・かりもの」であると教えられています。

目が見えること、手が動くこと、声が出ることなど、ふだん当たり前に感じているこの一つひとつが、実は親神様のご守護によって成り立っているものなのです。

ですから、「できること」に目を向けるということは、つまり、親神様が今の自分に与えてくださっているご守護に、一つずつ気づいていくということなのだと思います。

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ご守護への気づきから、「ひのきしん」へ

では、そのご守護に気づいたとき、私たちには何ができるでしょうか。

天理教には、「ひのきしん」という教えがあります。

ひのきしんとは、簡単に言えば、親神様からいただいているご守護に感謝して、自分にできることを進んでさせていただくということです。

大きなことでなくていいのです。

グラウンドでボールを追いかけることはできなくても、裏方役としてスコアをまとめることはできる。それも、立派なひのきしんになっていたのではないかと思うのです。

入院中、足が不自由でも、笑顔で「おはようございます」「ありがとうございます」と声をかけることはできました。これも、ひのきしんになっていたと思います。

金山先生が私にかけてくださった言葉、「それなら僕にもできます」「これくらいならさせていただきます」という、この姿勢こそが、まさにひのきしんの心そのものだったのだと、今になって深く感じます。

「ひのきしん」の教えについては、別の記事で詳しく解説していますので、ぜひあわせてお読みいただければと思います。

あわせて読みたい:天理教の「ひのきしん」についてわかりやすく解説(準備中)

あなたの「できること」は何ですか?

ここまで読んでくださった皆さんにも、きっと「できないこと」はあると思います。

身体的なことに限らず、仕事で、家庭で、人間関係で、「どうしても自分には無理だ」と感じる場面は誰にだってあるはずです。

そんなとき、もし心の片隅にこの言葉を置いていただけたら嬉しいなと思います。

「それなら、私にもできます」
「ここまでなら、させていただきます。」

大きなことでなくていいし、些細なことでいいんです。今の自分にできる、ほんの小さな一つを見つけて、それを進んでやってみる。

それはきっと、親神様のご守護を喜ぶ「ひのきしんの態度」にもなっていくはずです。

ソフトボール大会での閉会挨拶の言葉を考えながら、そんなことを改めて思いました。


これからも、あなたの心が少しでも明るくありますように。

「陽気ぐらし通信」では、日々の出来事の中から、心を明るくするヒントをお届けしていきたいと思います。

それでは、また来月。

(文・桑原信司)

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この記事を書いた人

桑原 信司のアバター 桑原 信司 後継者

天理教綾部分教会の後継者です。信者の皆さんや、地域の方々の心が明るくなるような信仰拠点を目指して、日々歩んでいます。
二児の父親。粒あんとコーヒーが好きです。