「天理教って、仏教の一種なんですか?」
「桑原さんは、お坊さんとはなにが違うのですか?」
教会にお越しくださる方や、私に興味を持ってくださった方から、ときどきこんなご質問をいただきます。
たしかに、建物の外観や、畳が広がる内装など、どこかお寺と重なって見える部分もあるかもしれません。
でも、説いている教え、とくに「スタート」と「ゴール」がぜんぜん違います。
今日はその違いを、なるべくかんたんにお話ししてみたいと思います。
仏教と天理教では「始まり方」が違う
まず押さえておきたいのが、仏教と天理教では始まり方がそもそも違う、ということです。
仏教の教えは「個人の修行プログラム」がベース
仏教の中心にあるのは「仏」という存在ですが、仏とはもともと「悟りを開いた”人”」のこと。
つまり、仏=人間です。
そのため、仏教では世界や人間を創った「創造主としての神」を説いていません。
わかりやすく言えば、仏教の教えとは、あくまでも「人が悟りを開く(仏になる)ためには、どのような修行をすればいいか?」という、個人の修行プログラムを説いた教えということになりますね。
天理教の教えは「親神様との親子関係」がベース
一方、天理教には、私たち人間と世界をお創りくださった「親神様(おやがみさま)」がおられます。
それは天理教の創造神話である「元の理」において明かされたように、人と世界を創造し、現在も私たち人間の「親なる神」として、あらゆる守護を授け、見守り続けている神様です。
ですから、仏教の教えが個人の修行プログラムであったのに対して、天理教の教えは親神様との「親子関係」に気づき、親の願い=「陽気ぐらし」の世界を実現していくための教え、ということになりますね。


「救い」のかたちもぜんぜん違う!
スタート(始まり方)が違うので、当然ですがゴール(救い)も変わってきます。
仏教における救い=個人の心のやすらぎ
仏教における救いは、迷いや苦しみから離れ、心が安らぐ境地に至ることにあります。これが「悟り」ですね。
もちろん仏教にはさまざまな宗派がありますので一概には言えませんが、大きな方向性としては、自分自身の心を整え、苦しみに振り回されない状態に到達することが、仏教における救いのかたちだと言えるでしょう。
天理教における救い=「人をたすける」人になること
一方、天理教の救いは、少し違った方向を向いています。
天理教の教えが記された『おふでさき』には、次のようなお歌があります。
わかるよふむねのうちよりしやんせよ 人たすけたらわがみたすかる
(『おふでさき』三 47)
人をたすけたら、自分がたすかる。それはなぜかということをよくよく考えなさい、という意味です。
このように、ひとりで悟りを完成させる仏教に対して、天理教は「誰かのたすかりを願って動くことで、自分自身もたすかっていく」というのが教えの基本です。
ですから、まずは自分が「誰かをたすける人」になることが大切です。
救いのカギは、自分ではなく他者にある、ということですね。
そして、そんな相互に仲良くたすけあう社会のあり方こそが、わが子である人間同士が陽気に暮らすのを見て、共に楽しみたいという親神様の願いを実現することとなります。
つまり、天理教における救い(ゴール)とは、
- 誰かのたすかりを願って動くことで、自分自身もたすかっていく(個人の救済)
- それが世界に広がることで、人類が皆仲良くたすけあって暮らせる「陽気ぐらし」が実現する(世界の救済)
の、2つのゴールがあると捉えることができます。
まとめ
というわけで、天理教と仏教の違いを、なるべくやさしくお話ししてきました。
ざっくりまとめると、
仏教は、「人がどう生きるか?」を突き詰めていく教え。
天理教は、「人間を創った親神様と、どう生きるか?」を考えていく教え。
と言えるでしょうか。
また、スタート(始まり方)が「人」か「神様」かで違うので、ゴール(救い)も変わってきます。
仏教の救いは、自分自身の心を整えて「悟り」に至ること。
天理教の救いは、人をたすけることで自分もたすかり、やがてみんなで「陽気ぐらし」の世界を実現していくこと。
方向は違いますが、どちらも「人はどうすれば幸せになれるのか?」を真剣に考えてきた教えであることに変わりはありません。
ですから、違いを知ることは、どちらが正しいかを決めるためではなく、「自分はどんなふうに生きたいか?」を見つめるきっかけになるのだと思います。
天理教Q&A のコーナーでは、世間一般の視点や、社会との関わりの中で感じる天理教への素朴な問いに対して、分かりやすくお答えしていきます。
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