この記事は、天理教綾部分教会が発行している会報『陽気ぐらし通信(2026年7月号)』の内容を、Web用に再編集してお届けするものです。
先日、SNSでこんな言葉を目にしました。
「一生を終えてのちに残るのは、われわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものである」
もしも私が天理教を信仰していなかったら、この言葉にピンと来なかったかもしれません。仕事をして、お金を貯めて、好きなものを買う。それ以上「人生の意味」について深く考える機会など、きっとなかったように思うからです。
けれど、この言葉を目にしたとき、私の頭には真っ先に浮かんだ人がいました。
20年ほど前に亡くなった、母親のことです。
母との思い出
母が亡くなったのは、私が高校1年生のときでした。
ある日の夕方、仕事から帰ってきた母は、ずいぶんと顔色が悪く、「頭が痛い」と弱音をこぼしていました。心配する私たちに、母は「神様にお願いするから、一緒に来てくれる?」と言うので、兄弟全員で神殿に行き、母と一緒にお祈りをしました。
しかしその後、母はトイレで意識を失い、そのまま病院に運ばれましたが、帰らぬ人となりました。
くも膜下出血。41歳でした。
あまりにも突然の出来事でした。悲しむ暇もなく、残された父と、15歳の私と、さらに小さな3人の妹弟たちは、ただがむしゃらに毎日を過ごすしかありませんでした。
「あなたのお母さんには良くしてもらったから」
母が出直してからの日々は、正直、大変でした。
けれど、その中で一つ、忘れられないことがあります。
母が亡くなったあと、驚くほど多くの方が、私たち家族のもとに手を差し伸べてくれたのです。
母の代わりにご飯やお弁当を作ってくださる方。家の掃除を手伝いに来てくださる方。何かと身の回りのお世話をしてくださる方など。
そして、その方々が口を揃えて言ってくださった言葉がありました。
「あなたのお母さんには良くしてもらったから」
この言葉を聞くたびに、私は不思議な感覚になりました。
目の前にいるその人の優しさの奥に、亡くなった母の存在が見えるような気がしたのです。まるで、その人を通して、母がまだ家族を守ってくれているような。
あの頃の私にとって、この言葉は、亡くなった母になぜかもう一度会えたような感覚になる、特別な言葉でした。
母が「与えたもの」は、出直しの先にも残った
あの経験があるからこそ、冒頭のSNSの言葉が、私にはとても深く響きました。
「一生を終えてのちに残るのは、われわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものである」
母が生前「集めたもの」、もともとなにかをコレクションするような人ではありませんでしたが、確かに「モノ」はあまり残っていません。
けれど、母が「与えたもの」はどうでしょうか。
信者の皆さんへの優しさ、思いやり、一人ひとりへの丁寧な心配り。そうした目に見えないものは、母の出直しの後も消えることなく、一人ひとりの心の中に確かに残っていました。
そして、それが母の出直しの後に、私たち家族のもとに帰ってきたのです。
先月号でも書きましたが、天理教では人が亡くなることを「出直し」と呼びます。死は「終わり」ではなく、魂が新たな身体をお借りして生まれ変わるための「始まり」であると教えられています。

母の出直しから気づかされたのは、人が出直した後にも「与えたもの」は残り続けるということでした。
身体はなくなっても、その人が周りの人に与えた優しさや温もりは消えない。むしろ、出直しの後にこそ、与えたものの大きさが見えてくる。
母の人生が、そのことを教えてくれました。
信仰のたすきを繋いでいくこと
先月号では、亡き祖父のことを書きました。祖父の10年祭を通して、年祭が「悲しみを受けとめるきっかけ」になるということについて考えました。

あわせて読みたい:しきたりが薄れる時代に、改めて葬儀や年祭をつとめる意味について考えてみた(陽気ぐらし通信 2026年6月号)
今月はさらに一歩踏み込んで、「出直しの先に何が残るのか」ということについて、母の思い出をもとに考えてきました。
亡き祖父や母が私に「与えた」ものは、信仰を大切にし、人に優しくある姿そのものでした。
そのどちらも、手元に「集めた」ものではなく、心に「与えられた」ものです。
そして、私が今、後継者として、また一人の父として考えることは、この受け取ったものを自分の中だけに留めないということです。
祖父や母から受け取った信仰の灯りを、たすきリレーのように、次の世代へと渡していく。
それこそ「信仰」のもっとも大切な部分であり、自分が今世でやらなければならないことなのかもしれません。
子どもと向き合いながら、日々そんなことを考えています。
これからも、あなたの心が少しでも明るくありますように。
「陽気ぐらし通信」では、日々の出来事の中から、心を明るくするヒントをお届けしていきたいと思います。
それでは、また来月。
(文・桑原信司)
