この記事は、天理教綾部分教会が発行している会報『陽気ぐらし通信(2026年9月号)』の内容を、Web用に再編集してお届けするものです。
早いもので今年も「実りの秋」となり、待ち望んだ新米の時期がやってきました。
有難いことに、今月の月次祭の後、農家の信者さんから収穫されたばかりの新玄米を30kgもお供えしていただきました。大切に育てられた初物を真っ先にお供えくださったそのお心に、有難さと嬉しさで胸がいっぱいになります。本当にありがとうございました。
当教会では、毎日の朝づとめの前に白米を親神様・教祖(おやさま)・祖霊様にお供えし、そのお下がりを夕食時に家族そろって頂いています。
が、炊きたての白いご飯を口に運ぶたび、今年はなんだか例年以上に、その有り難みが心に沁みます。
思い返せば昨年は、「令和の米騒動」とメディアやSNSで連日のように騒がれ、店頭からお米が消え、焦りや憤りを募らせる人々が多く見られました。
当教会のある綾部市は、都市部に比べると農家の方々も農地も多いため、そこまでの大混乱にはならなかった印象がありますが、今になって見れば、あの大騒動は私たちに「大切なこと」を気づかせてくれたように思えます。
今月はそんなお話です。
「当たり前」の裏にある絶え間ないお働き
私たち日本人にとって、いつの時代も「お米」は主食であり、毎日の食卓に欠かせないものですよね。
だからこそ、その大切な主食が不足してしまうと、
「お米が買えない → おかしい → 誰かのせいだ → 犯人を探せ」
となり、「なぜ買えないのか」「原因はどこにあるのか」と、まるで犯人探しをするかのような報道が目立つ「令和の米騒動」となったのだと思います。
しかし、そもそもその「お米が買えないのはおかしい」という考え方自体が、私たちが「お米が食べられるのは当たり前のこと」と感じている、なによりの証拠ではなかったでしょうか。
つまり、現代に生きる私たちは、いつの間にか「お米はスーパーに行けば安く買えて当たり前」「毎日白いご飯を食べられて当たり前」と感じるようになっていた。生かされていることへの感謝を、忘れてしまってはいなかったか?ということです。
昔の人々は、秋になるとどの地域でも五穀豊穣を感謝する「秋祭り」を催し、神様へ真っ先にお礼を捧げていました。お米が十分に実るということは、決して人間の力だけで達成できることではありません。
厳しい天候の中でもたゆまぬ努力を続けてくださった農家の方々の汗と、そして何より、日・水・風をはじめとする親神様の絶え間ないご守護があって初めて、一粒のお米が私たちの食卓に届けられるのです。
二代真柱様のお諭し
二代真柱様は、まさにこのことについて、次のようにお説きくださっています。
「作物が出来るのは、種子があって出来ることは明らかであるが、作物を自分がつくったように誤って考え易い。
実は、太陽の熱とか水とかの守護があってはじめて作物が出来るので、百姓はその手助けをしたにすぎないのである。」
「百姓はその手助けをしたにすぎない」の言葉は、決して農業を否定しているわけではありません。農家の方々の努力があってこそ、美味しい作物ができるわけであります。
しかし、その努力が実を結ぶためには、人間の力ではどうすることもできない自然の恵みが、ちょうど良い塩梅で整う必要があります。去年の猛暑と水不足は、まさにその塩梅が崩れた結果でした。
干ばつ、台風、長雨、冷夏…どれほど丁寧に育てても、天候一つで一年の努力が水の泡になる。きっと、農家の方のほうが「自分の力だけではどうにもならない 」をよく分かっていらっしゃると思います。
だからこそ昔から農家の方は、田植え前に神社に参り、秋には収穫を感謝してきたわけですよね。
豊かな実りは文明の発展によってもたらされるのではなく、神様のお働きによってもたらされるのであり、人間はその神様のお働きに沿って暮らしている存在であるということです。
「天の理」から考える
親神様のお働き=十全の守護
天理教では、親神様がこの世界と人間を創造し、今もなお日夜お休みなく生かし続けてくださっているお働きを、わかりやすいように10通りに分けて、これを「十全の守護」とお教えいただきます。
あわせて読みたい:天理教の「十全の守護」をわかりやすく解説
作物が育つのに欠かせない日の光も、水も、風も、すべてこの十全の守護のお働きです。
私たちの身体から、世界の隅々に至るまで、この世界にあるものは総じて親神様による10通り、つまり「十全の守護」のお働きがあるのです。
教祖のひながた「水を飲めば水の味がする」
また、天理教の教祖(おやさま)も、まさにこの「当たり前への感謝」についてお諭しされています。
おやさまは、「難儀なる者の味が分からん」からと、ご自身の財産をすべて困っている人々に施し、ご自身は「貧に落ちきる」という厳しい道をお通りになりました。
そして、明日食べるお米すらないどん底の状況の中で、教祖は家族に向かってこう仰いました。
「水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある。」
『稿本天理教教祖伝』より引用
何不自由なく食べ物にあふれている時には気づきにくい「命の有難み」も、不足を経験して初めて、一粒のご飯の尊さに深く感謝できるようになります。
去年の米騒動は、規模こそ違いますが、私たちにとって「水を飲めば水の味がする」というおやさまのひながたを追体験できる貴重な機会であったのかもしれませんね。
「いただきます」に心を込めて
今年はお米が豊作だと聞いて、素直に嬉しく思います。
一生懸命育ててくださった農家の方々への感謝。お米が育つように日・水・風のご守護を絶え間なく与えてくださった親神様への感謝。そして、収穫されたばかりの新米を真っ先に教会にお供えしてくださった信者さんへの感謝。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉がありますが、豊作の年こそ、頭を垂れて感謝を忘れない自分でありたいと思います。
「いただきます」「ごちそうさまでした」という言葉は、料理を作ってくれた人や農家の方への感謝であると同時に、親神様のお働きの中で命を頂戴できたことへの深いお礼の言葉でもあります。
今日召し上がる白いご飯を口にするとき、ぜひ一瞬お箸を止めて、お米を育ててくださった農家の方々の汗と、太陽や水を守護し続けてくださる親神様のお心に、思いを馳せてみてください。
その一口の味わいが、きっといつも以上に深く、有難く感じられるはずです。
これからも、あなたの心が少しでも明るくありますように。
「陽気ぐらし通信」では、日々の出来事の中から、心を明るくするヒントをお届けしていきたいと思います。
それでは、また来月。
(文・桑原信司)
