この文章は、天理教綾部分教会が発行している会報『陽気ぐらし通信(2026年10月号)』の内容を、Web用に再編集してお届けするものです。
10月26日は、天理教の立教の日です。天保9年(1838年)のこの日、教祖・中山みきさまが「月日のやしろ」として定められ、天理教の教えが始まりました。今からちょうど189年前のことです。
中山みきという一人の女性から始まったこの道は、いまや日本国内におよそ1万4千の教会を数え、世界80カ国、およそ120万人を超える人々の、心の拠り所となっています。
しかし、よくよく考えてみれば、江戸時代の地方の農村で、たった一人の女性から始められた教えが、なぜこれほどまでに国境や時代を超えて人々の心へ広まっていったのでしょうか?
立教の元一日が迫るこの時期に、改めて当時の中山家の状況や時代背景なども振り返りながら、その理由に思いを馳せてみたいと思います。
「民族宗教」と「世界宗教」の違い
まず、天理教が世界中に広まった要因として、天理教は「世界宗教」的な性質を持つ、日本で生まれた珍しいタイプの宗教であることについて触れたいと思います。
宗教には、大きく分けて「民族宗教」と「世界宗教」があるといわれています。
「民族宗教」とは、特定の地域や民族の暮らし、風土と結びついてできあがった宗教です。たとえば、私たち日本人にとって身近な「神道」は、日本の四季や自然観、日々の生活文化そのものと一体になって育まれてきた、典型的な民族宗教といえます。

一方、「世界宗教」とは、「人種・民族・国家・言語の境界を超えて広がっている宗教」とされています。つまり国籍や民族、身分の違いなどのハードルを超えて世界中へと広がっていった教えを指し、具体的には仏教・キリスト教・イスラム教などがこれに当たります。

では、天理教はどちらなのでしょうか?
教えが生まれた場所は現在の奈良県天理市で、当時は大和国庄屋敷村と呼ばれていました。教祖となった中山みき様も日本人です。客観的に見て、日本という風土の中から誕生した、日本の宗教であることは間違いありません。
しかし、おやさまが説かれた内容は、最初から徹底して「世界一列はみな兄弟姉妹」という普遍的なものでした。民族も、身分も、性別も、国籍も問わない。すべての人々は親神様の可愛い子どもであり、仲良くたすけあって陽気に暮らしていくことこそ親神様の思し召しに叶う私たちの暮らしである、というのが天理教の教えの角目です。
つまり、天理教は日本の風土の中で生まれながら、立教の時点で世界宗教として歩み出していたわけであります。
江戸時代の「常識」をぶっ壊せ!
次に、立教の年である天保9年(1838年)が、どのような時代であったかを、かんたんに整理してみたいと思います。
当時は江戸時代後期で、歴史的に有名な出来事であれば「大塩平八郎の乱(1837年)」や「アヘン戦争(1840年~)」などがあります。
天皇・将軍・大名・武士・農民と続く、ガチガチのピラミッド型の身分構成があり、生まれた家の身分によって人生のほとんどが決められていた時代です。
また、男女の性差についても、令和の時代からは考えられませんが、「男尊女卑」が当たり前で、社会の常識でした。
当時の女性の美徳とされていたのが「三従(さんじゅう)」の教えであり、これは「幼い頃は父に従い、嫁いでからは夫に従い、夫が亡くなれば子に従う」というものです。つまり女性は一生涯、誰かに従い続けるべき存在とされていました。
また、当時の系図を見ると、男性は全員名前が記されているのに対し、女性はただ「女」とだけ記されているものが少なくないそうです。
社会は完全に男性中心であり、女性に求められたのは「跡継ぎを産んで育てること」だけです。それ以外は基本的に主婦として家事をこなすのみで、社会的な発言権はほぼありませんでした。
しかし、そのような時代にあって、おやさまは「世界一列は、みな親神様の子どもであり、兄弟姉妹である」と、根気よく説かれました。
『おふでさき』には、
「高山にくらしているもたにそこに くらしているもをなしたまひい」
『おふでさき』13号45
というお歌があります。これは身分の高い「高山」に生きる人も、身分が低く貧しい「谷底」に暮らす人も、親神様から見れば魂の尊さに何の違いもないということを教えられたお歌です。
また、男女差別についても、
「この木いもめまつをまつわゆハんでな いかなる木いも月日をもわく」
『おふでさき』7号21
とあり、「雌松雄松は言わん」と、江戸時代の常識である男尊女卑を否定し、性別の隔てなく、一人ひとりが等しく親神様の思いがかかった人材であることをお示しになられました。
身分の上下などなく、男も女も同等の価値があり、また生まれ育った国がどこであれ、親神様から見れば一人ひとりが愛しい我が子であるというこの教えが、当時の人々にどれほどの衝撃を与えたかは想像に難くありません。
ましてや、その教えを説かれたのが、社会的弱者である一人の女性であったこと自体、社会の常識を根底から揺るがす出来事でした。
中山家の覚悟
おやさまが神のやしろとして定まられた日から、中山家の平穏な日常は一変しました。
「善兵衛さん地持ち」とうたわれるほど裕福な庄屋の家であった中山家の蔵から、米や金銭、日用品が次々と困っている人々へと施されていきました。
「貧に落ち切れ。貧に落ち切らねば、難儀なる者の味が分からん」と、文字通り「貧に落ちきる」道を、おやさまは自ら選び、歩まれました。
ついには庄屋の象徴であった母屋を取りこぼされるまでに至りますが、この時、おやさまは「これから、世界のふしんに掛る。祝うて下され。」とにこやかに仰せられたそうです。
先祖代々受け継いできた「中山家」が築いたものが、このように崩れていく中で、ご家族の戸惑いや苦悩はどれほどのものだったのでしょうか。親族からの激しい反対や、世間からの冷ややかな視線も絶えなかったはずです。
それでも、おやさまの意思が揺らぐことはありませんでした。先月の教会報(9月号)でも触れましたが、食べる物すら底をついたときも、おやさまは子どもたちに、「水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある」と声をかけて励まし、何もない境遇にあってこそ、生かされていることの尊さと親神様のご守護が澄みわたるように見えてくることを教えられました。

立教の原点には、おやさまと中山家のご家族が、徹底して「難儀なる者」の立場に身を落としながらも、心一つで陽気ぐらしを味わえることを身をもって示された、並々ならぬ覚悟が伺えます。
時代が、教えに追いついてきた
こうして説かれ続けた天理教の教えは、一人の農家の女性からあっという間に世界中の人々の胸を打ち、今も多くの人に受け継がれています。
「世界宗教」と「民族宗教」の違いでも触れましたが、天理教がここまで伸び広まった理由としては、やはり教えそのものが持つ「純粋な普遍性」にあるのだと思います。
①特定の民族や信仰者ではなく、「世界中のすべての人」を幸せにしたいという親心
身分や性別に縛られていた江戸の人々にとって、「世界中の人々が仲良くたすけあって陽気に暮らす」ことは、それ自体が途方もない話に聞こえたかもしれません。
が、同時に、江戸時代のさまざまなしきたりや性差別に苦しんでいた人にとって「もしそんな世界が本当にあるのなら」という共通の夢になり、人々の希望の光となり得たのかもしれません。
だからこそ、そのビジョンはあらゆる言語や立場の違いというハードルを超えて、世界中のあらゆる人々の心へ染み渡っていったのだと思います。
②現代社会の価値観は変化している
いま、私たちが生きる現代社会を見渡してみると、世界は少しずつ差別のない社会を目指して歩みを進めています。人権が重んじられ、男女の平等が語られ、多様性を認め合おうとする動きが広がっています。
見方を変えれば、「おやさまが189年前に打ち出した世界の理想的な姿に、ようやく時代のほうが近づいてきた」と言えます。
人類がさまざまな問題を抱えながらも、本当の意味で向かうべき行き先を、おやさまは最初から見据えておられたのだと感じずにはいられません。
原点を胸に、バトンを受け取る
今月の10月26日は秋季大祭です。
この節目にあたり、途方もないような逆境の中、天理教の教えを伝え広めてくださったおやさまと、そのお立場を信じて共に歩まれた中山家のご家族の覚悟に、改めて深く頭が下がります。
「親神にとっては世界中が皆我が子、一列を一人も余さず救けたいのや。」
『稿本天理教教祖伝』第六章
天理教の元一日をしっかりと心に刻み、日々の暮らしの中で目の前の人を思いやり、共に陽気に暮らせる社会を目指して、私も教会後継者として、これから一歩ずつ歩みを進めていきたいと思います。
